転校のこと。
今年の冬は暑い。
那覇は、21日から3日連続、25°C以上の夏日。
12月下旬としては1991年以来、24年ぶりらしい。
2015年もあと僅か。
気温のせいか例年よりも、年末感が薄い中、
この季節になると、様々な方面の方から、
退職の挨拶・報告をいただく場面が増える。
区切りよく、新年から新しいスタートを切りたい!
という時期なのであろう、
感覚的には、4月・10月に続いての多さ。
前向きなネクストステップに進まれることは、
素晴らしいなと思いつつも、
某アイドルグループの影響なのか、
その乱用具合に、いつも違和感を覚える言葉がある。
“卒業” である。
ウィキペディア教授によると、
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卒業は、学校の規定の全課程を修了すること。
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社会に出た以上、3年で卒業、4年で卒業、
なんて明確なルールがある訳でもなく、
誰かがそれを決めてくれるはずもないので、
当然、人生の区切りは、
自分自身で決めていかなければならない。
もちろん、個人の捉え方次第ではあるが、
極論を言えば、私は、
全課程が修了する=自分が死ぬ時だと思っている。
人間国宝とまで言われてる職人さんでさえ、
「未だ納得のいく作品は作れていません」
と、おっしゃるほど、
死ぬまで、常に学び・学び・学びの繰り返し。
社会人として『全課程の修了』への道のりは、
それほど果てしないものなのではないかと。
そんな中、義務教育さえ終えていない輩から、
「この度、◯年間お世話になった◯◯を
“卒業” させていただくことになりました」
と、送りつけられてくると、
いやいや、アナタ、全課程修了してましたっけ?
そもそも、義務教育さえ、終えてないんじゃ?
“卒業” どころか、赤点ですよ。
と、即レスしたい気持ちになる。
追試さえパスできない輩に限って、
「残った有給、全部買い取りしてほしい」
なんて、大黒屋もビックリの爆弾を投下してくる。
「思わず、自分の耳を疑ったよ」
という、経営者の方の話もよく伺う。
長ければ良いとか、短かければ悪いとか、
一生同じ場所で勤め上げるべきとか、
そういうことではなく、
“卒業” という言葉を使って良い人間は、
みなと苦楽を共にしながら、
時に馬車馬になって、そのミッションを果たし、
しっかりと、卒論(自分の功績)を提出。
卒業後、明確な研究テーマを持って
上級学校へ進学し、そこでも同じように
学び続けられる方だけなのではないかと。
そんな風に、“卒業” されていく方は、
最後まで、その場所で自分が何を残せるか、
残された期間で何ができるか?
を、考えられていて、責任を持ってやり遂げられる。
その存在は、稀有であり、ところ変われど、
またいつか仕事でご一緒したい、
と、心から願う方ばかり。
私を含め、何も成し遂げていない、
例えるなら、義務教育期間の学生の身分で、
“卒業” なんて、軽々しく使ってはいけない。
おこがましい。
ほんとに、“卒業” される方に失礼。
その二文字が目に入ってくるたびに、
そう、強く感じるのである。
学生諸君、勘違いするでない。
“卒業” と “逃亡” とは違うのです。
“退学”(落第で)
“転校”(落第で)
と、書きなさい。
アナタ、単に『逃げた』だけですよ。