なんやかんやで、沖縄。

沖縄生活6年目。ゆるりと日常を綴っていきます。

旅のお供のこと。

移動のお供は、カバンにしのばせた数冊の小説。

“読書家” とは言えないものの、沖縄で、脱・電車通勤となり、
目を通せる冊数が減ったことが、昨今、悩みの種である。


私は『How to 本』『自己啓発本
と、呼ばれている類のものは、ほとんど読まない。

だって、その人にはなれないから。

活字に触れること自体は好きだが、
貴重な24時間をそこに費やしたくない。
1日96時間くらいあれば、話は別だが、
それより優先したい事項が、目の前に山積している。


沖縄で仕事をする中で、
学生さん、社会人になって間もない方々とお逢いする機会が増えた。

『How to 本』『自己啓発本』を引っ提げている
今の言葉で言えば、“意識高い系”の皆さん。
しばしば感じるのは、
それを読むこと自体が、目的になってる方が多いな
と、いうこと。

スメラー主催の、なんちゃらセミナー・なんちゃら交流会に
こぞって参加したがる傾向の方々でもあるのだが、
自分の足元がグラついている状態で、
あちこちに “臭い” を嗅ぎに行かれるので、
危なっかしくて見ていられない。

「おーい、そもそも、出かける前に、靴履いてませんよ」

「自分の足元見てみ。裸足裸足。
 まず、靴下を買いに行きましょうか。じゃないと、怪我しますよ」

と、お節介ジジィ気取りで、
一緒に、ABC-MARTにでもお連れしたい気分になる。
(私はたまに左右違う靴を履いている時がある、人のこと言えない、怖っ)。


“旅のお供” は、ドラゴンボールで言う、『セル』のイメージ。
(ここ最近『魔人ブウ』と呼ばれることが多いが、右から左に流している)

吸収したものを、咀嚼し、
如何に “自分色” にして、自分の中に取り入れられるか、がミソ
ではないかと。

自分は自分。私は私。
その軸がブレていたら、あっという間に、“他人色” 一色である。

 

私は、小説を読む。

人が空を飛んだり、ロボットに乗って街を練り歩いたり
・・・ではなく、
フィクションと言えども、
綿密な取材に基づいて書かれている作品を好んで選ぶ。

『死ぬまでに、世界72億人、すべての人にお逢いしたい』
と、割と本気で思っているのだが、
それをアシストしてくれるのは、私にとって、作家さんであり、
私が飛ばずとも、彼らは、様々な世界を垣間見せてくれる。

ペン一本で、世界が拡げられ、
“疑似体験” をさせてもらえる小説家と出逢うたび、

「神様、仏様、作家様、
 戦わずして、吸収させていただき、本当にありがとうございます。
 これでまた、戦闘力が上がりました。
 『完全体』にはまだまだほど遠いですが、
 これからも修行を積み、精進していきます!」

と、心の中で、鳥山先生に報告を入れている。

 

文学部出身。
(うちの大学では “あそぶん学部” と揶揄されていたが)

当時は、経済学部(やめとけいざい学部)
法学部(あほう学部)、工学部(おやふこう学部)等で学ぶ同期たちと比べて、
「社会に出る上での実践的な勉強をしていない」
という想いがあったが、
今は、やっぱり、文学部が合っていたんだなと感じる。

1・2年生で、ほぼ単位を取っていたこともあり(いわゆる「フル単位」)
卒業前は、ほとんど学校に足を運ばなかったが、
唯一、“仏の○○” と、崇められていた教授のゼミには所属していた。

本は、人に読まされて読むものではない
自ら読みたいと思わなければ、それは時間の無駄。何の意味もない。
それよりも、今しかできないこと、今だからできることをやりなさい。

という、“仏” の言葉の意味が、30歳を(とっくに)こえて、
なんとなく、わかるようになってきた気がする。教授はやはり深かった。

 

 ・・・先生、本が読みたいです。©井上雄彦

悟飯との「かめはめ波」対決で、
『完全体』になる前に葬り去られないうちに、
また新しい “旅のお供” を、物色しに行こうと思う。

次週からの出張に備えて。

 

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